ローマ1章

構成

一章:福音に示されている神の義

   人の不義と神の義

二章:神の義と律法を持つユダヤ人の義

三章:全ての人の不義と神の賜る義

   十字架の御業による神の義。神の義の現われと信仰による義。

四章から七章は、次のような構成となっています。

四章:信仰による義

五章:義とされたことの祝福、

六章:義とされた者の生き方と罪との関係、

七章:義とされた者の生き方と律法との関係、

八章:義とされた者の歩みすなわち御霊による歩みおよび

   義とされた者の贖い。

1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。

 パウロは、「神の福音」のために選び分けられました。そして、使徒の務めを受けました。それは、キリストのしもべであって、仕え人としての働きです。彼が、自分を使徒といったのは、人間的な誇りによるのではありません。使徒であることを明確にしておく必要がありました。それは、主イエス様から、福音の啓示を直接受けた者であることを明確に示すためです。パウロが伝えようとする福音が神の前に正しいものであることを示すためにどうしても必要なことであったのです。

 「福音」については、今日、既に信じた人のために御言葉が取り次がれるいわゆる「学び」と区別する傾向があります。まだ信じていない人たちが信仰に導かれるために語られるのが「福音」という考え方が一般的です。確かに御言葉を取り次ぐ者は、語る対象が誰であり、どのような人であるかを考慮に入れて語ることは大事なことです。しかし、今日しばしば用いられる「福音」の定義は、福音の正しい姿を示すものではありません。福音は、信じていない人たちに語られるときには、その人たちが信仰に導かれるように配慮して語られる必要がありますが、「福音」の内容は、それだけにとどまりません。信者のために語られる言葉も福音です。

 パウロは、コリント人への手紙で、福音について示しています。

コリント第一

15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。

15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

−−

 これは救われるために必要な核心的な部分です。最も大切なことです。しかし、福音の目的は、単に人が救いの立場を持つことだけでなく、救われた者が成熟していくことが含まれています。以下に示します。

ローマ

1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。

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 彼が使途として召された目的は、全ての人に信仰の従順をもたらすためです。これは信仰による従順であって、信じて救われるだけでなく、神に従って生きることを表しています。そのために福音が語られるのです。

ローマ

15:15 ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、

15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。

15:17 ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。

15:18 私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、

15:19 また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。

15:20 このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。

−−

 パウロは、ローマに福音を知らせた理由をここでも明らかにしています。その中で、パウロは、祭司の務めを果たしているのであって、それは「異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」といっています。これは、12章1節の言葉と関連していて、聖なるものにすることであり、神に受け入れられるものにすることです。これが福音の目的です。「従順」にならせるためです。このために福音を述べ伝えたのです。また、

ローマ

1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

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 福音は、神の義をもたらしますが、その義は信仰に始まり、信仰に進ませます。すなわち、信仰によって義とされる立場を与え、信仰によって歩む義を持つ者とされるということです。福音は、救いの立場を与えることと、その後の正しい歩みをもたらすことの両方に関係しています。

1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、

1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

 福音は御子に関することです。福音の中心は、御子です。福音は、私たちの救いに関係し、救いを約束するものです。それは、滅びからの救いと、天の資産を受け継ぐ救いです。信仰の歩みの全てに関わるものです。福音によって示される神の言葉を受け入れることによってもたらされる祝福と関係しています。その福音は、御子に関することです。

 その福音は、既に旧約聖書に示されてきたものでした。預言者によって示されてきました。

 その福音が示す御子は、預言書のとおり、肉によればダビデの子孫として生まれた方です。肉に関する観点から見れば、ダビデの子孫として生まれたということです。預言によって、神の御子がダビデの子孫として肉体をとって、預言どおりに生まれることです。

 ここでは、肉体に関する出来事と、霊に関する出来事のそれぞれにおいて御子として示された方であることが示されています。ダビデの子孫として生まれたことは、聖書が証明する神の御子の証しです。

 よみがえりは、肉体と対比して霊に関する出来事で、父なる神の直接的な証明です。「聖い御霊によれば」と記されていますが、この「御霊」の部分は、聖霊のことを指しているのではありません。これは、神聖の霊という意味です。「肉によれば」に対比されています。肉に対しての霊なのです。この霊は、キリストの霊のことです。キリストの霊ですから、「御霊」と敬語になっています。キリストの肉とキリストの霊という対比になっています。「

 「聖い」は、「神聖」という意味です。すなわち、神の霊という観点からは、公に神の御子として示された方であるのです。

 この方のよみがえりは、父なる神の「大能」の力の現れであり、神が直接御子であることを証明するためになしたことであることが分かります。そして、御子のよみがえりは、神の宣言です。この方が御子であることを公に示した出来事なのです。「示された」と記されている語は、境界を決めることで、宣言するという意味があります。明確にされたのです。

 ですから、主イエス様がよみがえられたことを信じるということには、この方が御子であるという神の宣言を受け入れることが含まれています。信じないということは、その神と御子を拒むことであるのです。

 この御子は、「私たちの主」であり、「イエス」「キリスト」です。

1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。

 パウロは、自分が受けた働きに関しては、恵みと表現しています。彼自身の何かにはよらないで、神から受けたことを強調しています。恵みは、神様が備えた良いものです。それを信仰によって受け入れることで、実現します。

 そして、使徒の務めを受けたのです。

ローマ

15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。

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 パウロは、福音を明らかに示すと共に、自分の使徒としての務めの目的を示しました。それは、信仰の従順をもたらすためなのです。使徒として、この手紙を記したパウロは、この手紙によってローマの信者が信仰の従順に至ることを願って記したと分かります。

 「従順」は、ローマ書では、七回(一回は、服従するという動詞:6章16節)使用されており、服従を表しています。この「従順」は、聞くことを意味し、聞いたことに従うという意味です。信仰の従順と記されていますが、神によって示された言葉に従うことを意味します。すなわち、御言葉に従うことです。

 その究極の目的は、「御名のため」です。信仰の従順は、御名の栄光を現すことになります。神の示したことをそのまま受け入れるからです。受け入れるに値する言葉として受け入れるのです。そのようにして、神に栄光を帰します。

1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──

1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

 パウロは、ここに宛先を記しました。それは、ローマの信者です。ローマの信者は、パウロにとって大変尊いかけがえのない存在です。

 彼らは、イエス・キリストによって召された人々です。神に愛されている人々です。「召された聖徒」とされています。この「聖徒」というのは、神のために取り分けられたことを意味しています。聖徒という身分のようなものがあるのではなく、聖なる者すなわち神のものとされたという意味です。神のものですから、信者は尊いのです。信者は長老に従いますが、長老が信者を自分の言いなりになる所有物のように考えることは大きな誤りです。

 その信者のことを考えて、パウロが祈ったことは、父と主イエス様から来る恵みと平安です。

 恵みは、神と主イエスが好意によって備えた祝福です。それは、信仰によって受け取ることができます。そして、「平安」と訳されている語は、「完全さ」です。平安があることは、幸いですが、神様の御心の実現という観点からは、重要性を持ちません。むしろ、神が備えた祝福が「神の御心を完全に全うする」完全な形で実現することこそ重要です。

1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。

 パウロは、ローマの信者について覚えたときに神に感謝しました。それは、ローマの信者の信仰について聞いていたからです。その信仰は、全世界に言い伝えられていました。その上で、パウロは、以下のことを述べています。

1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、

1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

 パウロは、いつもローマの信者のことを思っていました。そして、ローマに行くことを願っていました。ただしそのローマ行きは、神の御心の範囲でのことです。パウロの祈りの姿勢を教えられます。その目的は、ローマの信者を御霊の賜物によって強めるためです。「 御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて」と記しましたが、ここでは「御霊の賜物」は、神の働きをなす特別な能力そのもののことではなく、その賜物によって与えられているもののことです。それは、真理や教えや知識や知恵などです。彼が言い換えている内容によって、それがローマの信者を励ますための信仰による働きであることが分かります。

1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。

1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。

1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

 ここで「実を得よう」と言い表していますが、これは、福音により人が救われて神に従った歩みに導かれる人が起こされることを言っています。すなわち、信仰の従順をもたらすことです。

 パウロは、ローマの信者が福音を正確にまた明確に覚えて、その中に正しく生きることを願いました。それで福音の全体像を記しました。次の言葉はそれを示しています。

ローマ

15:15 ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、

15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。

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1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

 ローマの信者の状態について直接記した箇所は少ないですが、ローマの信者に対して、パウロが知らせようとしていることから、ローマの信者の陥ろうとしている危険性について考えさせられます。特にローマには、はなはだしい堕落がありました。そのような中で、真理が保たれ、聖さが保たれることは容易なことではありません。その彼らに必要なことは、福音です。

 福音を恥とは思わないといいましたが、福音を第一のものとして生きる生き方から離れようとする危険性について覚えさせられます。

 しかし、福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。どのような生き方にも勝って福音を信じることが尊いのです。

1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 その救いとは、神の前に義とされることです。福音はその神の義を与えます。その義を得ることは、信仰に始まります。これは、イエス・キリストを信じることによって義とされ救いの立場が与えられることを示しています。これは、始まりです。

 そして、信仰に進ませるとあります。信仰によって義とされた者が、今度は信仰によって歩むことになります。その信仰は、より深められて行き、神に対する従順へと導かれます。そのことによって与えられるもうひとつの神の義があります。神様は、そのように神の前に正しい歩みを義としてくださいます。信仰による歩みは、義とされます。神様の御言葉を信じて、その中に生きる歩みが義とされます。これは、義の実を結ぶことです。

 神様がいらっしゃることを認め、主である方の前を歩む者として歩むことです。兄弟姉妹を主イエス様が尊び愛しておられます。そのことを知る者として、兄弟姉妹を愛して歩むのです。父母を敬い、妻あるいは夫を愛し、子を愛するのも、御言葉を信じるからです。その行いは、内住される御霊によるものであり、肉の力によるものではありません。信仰により、御霊がなす業です。

 「義人は信仰によって生きる。」という言葉は新約聖書に三回引用されています。ここでは、信仰によって義とされることと、義とされた者は、信仰によってすなわち、神の言葉を信じて従って歩むことが示されています。全体のテーマでもある信仰の従順が取り上げられています。

ガラテヤ

3:11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。

3:12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。

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 律法の行いによる人々については、祝福を受け継ぐことができません。彼らは、呪いのもとにあるからです。そのことが聖書を引用して証明されています。「律法の書に書いてあるすべてのことをを守り行わないものは、呪われる。」と記されているからです。

 そのことがさらに詳細に記されていて、義人は信仰によって生きると記されているように、義とされることは信仰によりますが、掟を行う人は、信仰によって生きていません。それは、律法の掟を行う人は、その掟によって生きると記されているように、信仰にはよらないのです。ですから、律法を行う人は、義とされないのです。ガラテヤ人の誤りは、信仰によってその歩みを始めたのですが、律法の行いをするようになったからです。

ヘブル

10:37 「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。

10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」

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 そして、ここでは、わたしの義人とあるように神の前に義とされた者たちがどのように歩むかが取り上げられています。続く十一章には、信仰によって生きた人たちの模範が示されています。そのように、神様がすぐに迎えにおいでになることを信じ、天を目指し天の資産を報いとして、信仰によって歩むことを表しています。

1:18 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

 なぜ神の前に義とされ、救われる必要があるかが次に記されています。

 それは、神の怒りが不義に対して下るからです。この不義は、不敬虔と不正です。その不義が真理を阻んでいます。彼らが、不義を行っていることは、神がおられることを無視した行為であるからです。信じる者は、神がおられることを認めて生きます。ただ、信者でも神がいないかのように振舞うこともあります。

 さて、彼らは、神がおられるのに、神を無視しているのは、彼らが神を知ることができないからではないかという考えに対して、神については全ての人が知り得ることが次に示されます。パウロの話は、これらの疑問点を自分の内に想定して展開されています。

1:19 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。

1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

 神の永遠の力と神聖は、被造物によって知られます。しかもはっきりと認められます。その永遠の力で天地を創造されたのです。人間が及ぶことのない聖なる方です。

1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。

1:22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、

1:23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

 「というのは」という接続詞でつながれていますが、これは、全ての人が弁解の余地のないほどよく知っているということに対して、多くの人が神のことを知っていないように振舞っているのは、神を知らないからであるという考え想定して、記されています。

 彼らは神を知らないのではなく、神を知っていて神を崇めないのです。その結果彼らの思いはむなしくなりました。自分を創られた方がいることを無視したとき、彼らは、自分の存在の意味が分かりません。何のために存在し、何のために生きるのかが分からないのです。偶然の存在と考えたら何の存在の意義もありません。

 さらに彼らの心は、無知な心であるといいました。神の存在という偉大な真理に目を閉ざしていることが無知なのです。それが分かるのに知ろうとしません。神の存在を認めて知られる光を彼らは知ろうとしません。人が存在する意味や目的、そして、永遠の栄光も何も知ることができないのです。彼らは闇の中にいます。ひとたび神を知り、真理を知った者は、光の中にいます。

1:24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。

1:25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

 真理を偽りと取り替え、真の神ではなく、人の手によって作ったものを拝むようになった人々に対して、神様は、人を心の欲望のままに引き渡されました。彼らは、聖い神を認めようとはしません。彼らの願うことは欲望のままに生きることです。神様は、それを止めなさいませんでした。しかし、これは恐ろしい裁きでもあります。

1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、

1:27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。

 ローマで行われていた恥ずべき男女の問題は、神の裁きでもあります。

1:28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。

1:29 彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、

 不義は、正しくないことです。正しい基準から外れることを言っています。赤信号は、止まりましょうという規則に対して、それを守らないことです。エバは、園の中央にある木の実を食べてはいけませんと言われましたが、食べました。食べるのに良く、目に慕わしいとありますが、美味しそうに見えたのです。他の食べ物が十分にあるのに、食べてはいけないものを食べたのです。死ぬ食べ物を食べたのです。これは、貪りと対応しています。その不義を行うのは、心の欲望がそうさせるのです。食べたいと強く思うので、食べてはいけないものを食べるのです。

創世記

2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

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 悪は、悪いことです。金をだまし取るようなことです。お年寄りを狙って、お金をだまし取る詐欺が今も横行しています。自分はだまされないと思っていても、詐欺師は、非常にうまく騙すのです。また、盗みをすることです。それをしたいからするというよりも、目的のためには悪いことをするのです。これは、悪意に対応しています。

 初めに、神は、彼らを良くない思いに引き渡されたとありますが、彼らの思いが悪いものを求めるようになったのです。神様は、そうなるのをあえて引き留めようとはされませんでした。神様を知らないと言って神から離れた人たちをそのままに放って置かれたのです。

ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています

→妬みがはじめに記されています。自分よりも良いものを持っている人のことが憎くなるのです。自分よりも頭のいい人がいると、その人のことを素晴らしいと言って褒めるのではなく、その人が憎くなるようなことです。

 自分よりも年下の子が褒められると、そのこのことを立派な子として感心するのでなく、その子が憎くなります。それが妬みです。それは、自分をいつも他の人と比べているからです。自分が一番良いものを持ちたいという思いがあり、人からよく思われたいという思いがあるからです。

 スポーツでも、自分の応援する国や、県の選手が他の地域の人に負けると、勝った人を褒めるのではなく、憎くなることがあります。

 そのように、妬みは、こわいものです。相手がいなくなればいいと思うようになるのです。そして、殺意が生まれます。殺してしまいたいという思いです。

 そして、争いが生まれます。喧嘩するのです。殺し合うのです。自分の国のことだけ考えて行動すれば、戦争が起こります。

 欺きは、人を騙すのです。争いには付き物です。

 そして、悪い計画を立てて、相手を陥れるのです。

 自分に事を第一に考えていると、そのようなことが起こるのです。人の心の中に沸き起こるのです。

 陰口は、人の悪口をその人の聞いていなところで言いふらすのです。それも、その人を憎んでいるからです。

 そしることは、今度は、面と向かって悪口を言うのです。その人を人の前でおとしめるのです。そのようにして、自分が勝ち誇るのです。

1:30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、

1:31 浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。

 神を憎む者は、神様がいることを否定するだけではありません。神様の存在を憎むのです。そのような人は、人を人と思いません。人を尊いとは考えないのです。自分にとっては、都合のいい道具か邪魔者のようにしか考えていないのです。

 ですから、高ぶります。神の言葉に従うことをしないのですから、人の前にも高ぶります。自分を偉い者のように考えるのです。他の人が価値あるものだとは考えないからです。

 大言壮語するというのは、大きなことを言うのです。人を欺いて、自分が偉いものであるかのように言うのです。偉くもないのに、偉い者だと言うのです。

 悪事を企むのです。悪意や悪巧みは、既に出てきました。ここで、もう一度悪事を企むことが取り上げらているのは、神を憎む結果としてそのようになったことが記されているのです。

 そして、親に逆らうのです。神様の言葉は、父と母を敬いなさいと記されています。しかし、神を憎む人は、親に逆らいます。親は、神様と同じ立場を表しています。子を生み出したものとして、神様と同じ立場なのです。親は、子を愛します。それも、神様と同じです。その親を敬うように、神様は、命じられました。しかし、神を憎むので、親に逆らうことも平気なのです。親を敬わないクリスチャンは、ありえません。そのようにする人がいるとすれば、決して祝福を受けることはありません。

 さらには、浅はかすなわちわきまえのないものになります。わきまえを持つのは、神様を恐れる人だけです。正しい判断ができないのです。何がよいことであるのか、その基準がわからない人がわきまえることはできません。神様がおられるので、神様を恐れることで、正しい歩みができるのです。

 約束を破る者は、約束を破ったとしても平気なのです。自分に都合が良ければよいのです。それを正しく裁く方がいることを認めなければ、約束など何の意味もないのです。商売などで、約束を破れば、もう取引をしてもらえないので、そのようなことはしないでしょうが、不都合が生じなければ、約束さえ破るのです。

 情け知らずの者になるのは、自分のことしか考えていないからで、他の人も神様が造られたことを認めないからです。道路で車を追い立てたりするのです。

 慈愛のない者になるのです。一人ひとりの人間を尊い価値ある存在と考えないからです。神様が全ての人を造り生かしておられて、一人ひとりが神の前に尊い存在であることを知らなかったら、心から人を愛することはできないのです。人は、自分と意見の合わない人、自分にとって不都合な人をすぐに憎んだりします。それは、神様がいることを認めないからです。

1:32 彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。

 神を知ろうとしない者たちを悪い思いに引き渡しました。ここに記されている罪は、心の問題です。そして、それを行うようになるのです。しかも、その不正を正すのではなく、自分も同意しているのです。

 今日も、罪を心から憎む人は少なく、裁きや、社会的制裁がなければ、自分も行いたいと心から願っているのです。